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2009年1月13日火曜日

ไม่ต้องกลัวมัน 芋を恐れる必要はない?

 どの言語でも、ある単語が複数の意味を持つということは多分にある。しかし、それらの意味に何の関連性もないように思われるとき、その言語の学習者はその単語のイメージ・全体像をなかなかつかみ難いものだ。

 ホテルのフロントで、マイ・トン・クルア・マンไม่ต้องกลัวมัน と言われたことがある。マイ・トン・クルアまでは分かるが、このマンが分からなかった。マンは「芋」とか「油」という意味だ。「いも、または油を恐れる必要はない。」と言われても思い当たる節がない。部屋に戻り、タイ語の本を取り出して開いてみた。man มัน : 「いも; 脂肪 , 油 ; あいつ , それ」(実用タイ語会話① 再訂版)と載っていた。「あいつを恐れる必要はない。」なるほど、合点がいった。
 その頃、私と連れのオーンは一人の日本人の嫌がらせに遭っていたのだ。因みに、マイにはまったく同じ発音で「火」という意味もあるが、こちらはไหม้ でタイ文字が異なるから別の単語である。マンが三人称の代名詞で使われるとは知らなかった。

 
 ネズミ หนู が自称や対称の呼称代名詞として使われることがある。日本人とタイ人とでは、ネズミに対するイメージが違うのかもしれない。そんんなことを意識して書いた文章があるので、このブログにも載せることにする。
     
Mon, 5 May 2008

 一瞬、躊躇して後ろを振り返る。真昼の太陽の光が切り取られたように口を開けている。一度大きく呼吸をしてみる。それから内部に目をやり、ゆっくりと歩き出す。しだいに背後の喧騒は遠ざかり、とぐろを巻いたヘビの腹の中へと飲み込まれていく。
 あらゆる食材と日用品で埋め尽くされ、巨大な迷路と化した市場。異様な臭気が鼻を突く。一体何の臭いだろう。血?一瞬たじろぎ、立ち止まる。どこをどう歩いたのか。空気が重い。あたりを見回す。天井を見上げてみる。どうやら元の位置に戻ってきてしまったらしい。感覚がおかしくなりかけている。軽い幻惑を覚え、目をつむる。自分が存在している位置に自信が持てなくなってくる。まるで、どこかにタイムスリップしたかのように。その時、一匹のネズミが足をかすめて走り去った。
 子供の頃、我が家にはよくネズミが出た。朝起きると、茶の間の膳の上に出してあった菓子やいなり寿司が食い荒らされていた。時々母が買ってきてくれたドーナッツは確実に持っていかれてしまった。いくらネズミの侵入口を探し出して塞いでも、真夜中になると必ずやってきた。屋根裏をけたたましい音を立てながら走り回る晩もあった。おびえる私に母は、今夜はネズミの運動会ねと言って笑っていた。
 今ではもう、日本の都会でネズミを見かけることはほとんどなくなった。その分、豊かな国になったということだろう。タイでは、大人が親しみを込めて子供に呼びかける時、ヌウ(ネズミ)と言う。子供同様、そこいらじゅうにヌウはいる。
 遠くから、誰かに呼ばれたような気がした。ゆっくりと目蓋を上げる。ゆっくりと。タイ北部チェンラーイの中央市場の薄闇に囲まれ、小さな男の子の姿で、独りぽつんと立ちつくす私がそこにいた。(「タイ便り」)

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